その男とは、一体何者なんだ
それは、医療界の革新だった。
今から約30年前のことだった。
「直ちに治療をせねばならない患者もいるのに、
検査結果を知るのに
後日の外来予約っておかしいだろう!」
「俺はやる。
今日来た外来患者の検査結果を、
外来診療に間に合うように出す」
「迅速検査だ!」
その当時、全国どこの病院を探しても、
血液──特に生化学的検査データを
その日の外来で出すことはなく、
検査結果を聞くためには再来予約が必要だった。
迅速検査、それを実現させたのは、
ある一人の臨床検査技師・Mr.キヨカワ。
今では当たり前となった検査結果の迅速化は、
この男の熱意から始まったものだ。
結核専門病院から佐賀県立病院「臨床検査部」と、
定年に至る長きに亘り患者のデータを分析してきた。
患者から採取した、血液・尿・便などから
病気の原因となる細菌や
ウイルスなどの微生物を探し出すほか、
血中の状態(酵素、脂質、腫瘍蛋白、ホルモン等)を分析する。
「分析」、つまり見つけるのは医師ではなく臨床検査技師。
その眼力こそが、患者の治療を左右する重要な鍵を握る。
医師の診断と、患者の命へとつながる
重要な役割を担っているのが、臨床検査技師なのだ。
「室長、本日の検体です」
現在Mr.キヨカワは、佐賀県内2社のうちのひとつ、
ここの検査センターに就いている。
主に食品従事者を対象とする、いわゆる「検便検査」だ。
砂の中から探しものをするような作業
平日は、毎日検査センターに「検体」が届いている。
検体──平たく言えば、う◯こだ。
※検体は細菌を増殖させる培地に塗抹し、
培養させると培地にコロニーが形成される。
培地のコロニーから、
食中毒菌検査とも呼ばれる病原性の菌を発見する。
誰もが一度はやったことがあるだろう、検便検査。
「むむむ……、これは顔つきが怪しいぞよ」
培地のコロニーを覗く室長の眉間に、シワが寄った。
「まさかなのか!? 頼むぞよ、陰性であっておくれ」
しかし培地のコロニーから顔をあげた室長は、
女性スタッフを呼び寄せた。
「異常なコロニーを見つけたぞよ。
O157の疑いじゃ。
確認培地を使ってもう一度培養しておくれ」
このセンターに持ち込まれる検体は、
主に食品工場や給食センターなどの調理場、
スーパーの生鮮部門など、食品従事者が主である。
その従事者に対し、
赤痢・サルモネラ・0157などの菌に
感染していないかを判定するものだ。
その見極めこそ、Mr.キヨカワ──いまや室長の
最も優れた能力を発揮するところである。
「室長、先日の検体の、
確認培地と免疫血清の結果です。
お願いします」
「うむ……」
渡された結果を覗き込んだ。
そしてゆっくりと顔をあげると、
「ワシはこれをO157と判定するのじゃが…」
「やむを得ん、最終結論のためこれを
福岡にある検査機関へ送ってくれい」
室長の目に狂いはない。
「う◯こを見ているのではない、人だ」
検便検査の中で、「陽性」が出る確率は
わずか1%以下。
ほとんどが陰性であることが当たり前である中、
この1%以下の陽性を見つけることは、
ある意味容易なことではない。
その日に回収された検体は、その日のうちに検査に回す。
1人の検査に対し、使う培地は2種類。
1つは「赤痢菌、サルモネラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌」
もう1つは「腸管出血性大腸菌O157」
を検査する。
これには時間かかり、約37℃の「ふらん器」で24時間置く。
植えられた菌はコロニーの色などが様々に変化し、判定へと進む。
陰性なら1枚の培地に対し2〜3分もあれば判定がつく。
しかし陽性が疑われるものには、判定するまでに時間を要する。
「以上、本日の検体に異常なしじゃぞよ!」
毎日「異常なし」であることが大前提の仕事。
室長がこれまでに居た病院とは違い、
ある種、“退屈”なのではないかと訊いたことがある。
「馬鹿を言っちゃいかんよ」
「ワシはこの道に入った時からこう思っておるのじゃよ。
『検体はモノではなく、ヒトそのものなのじゃ』」
「ひとつの検体が教えてくれる情報を見逃さず、
迅速で的確な判定ができることが何よりじゃよ」
医療界に革新をもたらしたMr.キヨカワは、
現在、検体をう◯こ一筋に切り替え、
今日もまた、培地のコロニーを覗く日々を送っている。
すべてが陰性の検体であることを願いながら。
「仕事の後の焼酎はうまいのう〜。
これがなによりの楽しみじゃよ」
う◯こは明日もまた、やってくる。
これからも見守りは続く。